ミルトン・エリクソンと物語
伝説的な催眠療法士であるミルトン・エリクソンは、その治療や教育に「物語」を使うことで有名でした。
「物語」を使うことで、患者の無意識の領域にアプローチし、間接的に患者に新たな考え方を植え付けたり、動機づけを高めたりしました。
ミルトン・エリクソンにとって、物語を話すことが人生のすべてでした。
患者のみならず、家族、同僚、生徒に対しても、終始一貫して物語を使って話しかけました。
エリクソンが語った多くの物語は、彼自身の人生や家族、患者などの人生から生まれた本当のことを話したものでした。
このブログでは、そのような「癒し」に満ちた物語をご紹介させていただきたいと思います。
初めての投稿となる今回は、私がエリクソンが語った物語の中でも最も好きなもののひとつである、「ジョウ」という男性の人生にまつわる物語をご紹介させていただきたいと思います。
私(ミルトン・エリクソン)が10歳の時、ウイスコンシン州の農場で生活していた時の話です。
ある夏の朝、私が父と一緒に村の中心部を訪れたとき、何人かの同級生が私を見つけて近づいてきました。同級生は興奮した様子で「ジョウが戻ってきている」と言いました。
私は、ジョウという人物が誰なのかを知りませんでした。
同級生は、私にジョウについて親から聞かされていたことを教えてくれました。
ジョウは非常に攻撃的な性格で、家や他の人のものを破壊したり、家畜に危害を加えるなどの行動を繰り返したため、すべての学校から追い出されていました。
ジョウが12歳の時、彼の両親は息子を扱いきれないことに気づき、ジョウを救護院(日本でいう児童自立支援施設)に入れました。
入所してから3年後、ジョウは両親に会うための仮釈放が認められました。しかし、彼は家に帰る途中に、いくつかの重たい犯罪を犯したため、警察に逮捕され、救護院に連れ戻されました。
その後ジョウは、21歳まで救護院を出ることができませんでした。
ジョウが21歳になると、彼は法律に従って釈放されました。
その時、すでに両親は他界しており、彼に帰る場所はなく、10ドルと救護院でもらった服と靴が彼の全財産でした。
彼はミルウォーキーという町に行って、すぐに強盗などの犯罪を犯しました。彼は警察に逮捕され、刑務所に送られました。
刑務所では、彼は誰とでもけんかをしたり、物を壊したりしたため、独房に閉じ込められました。彼は刑務所で何ひとつ模範的な行動はせず、刑期を終えて出所しました。
ジョウは釈放されると、グリーン・ベイという町に行き、そこでも強盗などの重罪を犯し、すぐに州刑務所に送られました。
ジョウは、その刑務所でも問題を起こし続けたため、すぐに地下にある独房に入れられました。その独房は、縦横8フィート(約2.4メートル)で、床はコンクリートでできており、独房入口にある側溝に向かって傾斜がありました。
実は、私は訳あってその独房を見たことがあるのですが、光も音も通さないような空間で、トイレなどの衛生設備もありませんでした。
1日に1度だけ、粗末なパンや水の乗ったお盆が入口の穴から差し出されていました。
ジョウは、刑期のほとんどをその地下独房で過ごしました。
たいてい、あの地下独房に2日間入ると、誰もが精神を病みますが、ジョウは2年間もそこで過ごしたのです。
ジョウは、刑期を終えて刑務所を出所した4日目に、私の住む村にやって来たのです。
ジョウが来てすぐに、村にあって3つの店すべてに泥棒が入り、川で係留されていたモーターボートも盗まれました。村の誰もがジョウのしわざだと思っていました。
その村から2マイル(約3㎞)離れたところに広大な農地を持つ裕福な農夫一家が住んでいました。
その家には、とても魅力的な23歳の娘が住んでいました。ひとりで土地を耕し、干し草を積み、干し草を積み、とうもろこしを栽培することができました。ほかにも、とても服を作るのが得意で、村の結婚を控えた若い女性のために、花嫁衣裳や赤ちゃんの服を作ってプレゼントしたりしていました。しかも、とても料理上手で、村で最高のパイやケーキを作る女性としても知られていました。
その娘の名は、エディといいました。
ジョウが村へ来てから4日目の日、エディが買い物のため馬車を引きながら村の中心部を歩いていたところ、突然ジョウがエディの前に立ちふさがりました。そして、少しの時間が経ったのち、ジョウが「あなたを金曜日のダンスに誘ってもいいですか?」といいました。
その村では、金曜日の夜に、町にひとつだけあるダンスホールで若者たちが集まって夜通しダンスをするのが慣例となっていました。
ジョウの言葉を聞いたエディは、毅然とした態度で「あなたが紳士的な方ならいいですよ」と答えました。
エディがそう言うと、ジョウは無言でわきによけたので、エディは何ごともなかったかのように馬車を引いて用を足しに行きました。
そして、その週の金曜日、エディが村のダンスホールを訪れると、ジョウが待っていました。その晩、ジョウとエディは、すべての曲を一緒に踊りました。
その翌朝、村にある3つの商店の店主は、先日盗まれた商品がすべて戻ってきているのに気づきました。
川のモーターボートも戻っていました。
ジョウは、エディの父を訪ね、農夫として雇ってほしいと頼みました。
エディの父が「農夫は重労働だ。仕事は日の出とともに始まり、日没後も働かなければならない。日曜の朝は教会へ行くが、帰ってきてから仕事をする。休日などはほとんどなく、給料も多くは払えない。それでも働くか?」と言い、ジョウはそれでもいいと答えたため、ジョウはエディの家の敷地にある納屋で生活しながら、住み込みの農夫として働くことになりました。
それから3か月と経たないうちに、村の農場主たちは、ジョウのような農夫がうちにもいてくれたらと思うようになりました。
ジョウはとてつもない働き者でした。
1日の仕事を終えた後、ジョウは脚を骨折した隣家の手伝いに行きました。
ジョウはあまりしゃべらない人でしたが、いつしか村の人気者になっていました。
1年後、村人は、ジョウとエディが一緒に馬車に乗って出かけているのを見ました。それは、その村では恋人たちがする一般的なデートの形でした。
さらにその後日、ジョウとエディがふたりで教会を訪れるのが目撃されました。それは、ただひとつのことを意味していました。
数か月後、ジョウとエディは村人たちの祝福の中、結婚しました。
ジョウは納屋を出て、エディの住む母屋へと移り、正式な家族となりました。
そのころ、少年だった私は、ハイスクールに進学するつもりだと周りの人に言っていました。しかし、村の人はみな不快感を示しました。なぜなら、私は優秀な農夫となることが期待されていたからです。村人は、ハイスクールは人をダメにするものだと考えていました。
そのようなとき、ジョウが私を訪ねてきて、ハイスクールに行くべきだと励ましてくれました。そして、私が進学できるよう、村の人々を説得して回ってくれました。
村の教育委員を決めるための選挙が行われる時期となったとき、村人の誰かがジョウの名前を挙げました。そして、ほぼすべての村人がジョウに投票したため、自動的に教育委員長に就任することになりました。
ジョウが教育委員長となってから最初の委員会が開かれることとなり、村人はジョウが何を言うのかを興味深く見守っていました。
ジョウは委員会の場でこう言いました。 「皆さんは私を教育委員長に選びましたが、私は教育について何も知りません。ただ、皆さんが自分の子供が立派に成長してほしいと思っていることは知っています。そうするために一番いい方法は、子供たちを学校に行かせることです。よい教師を雇い、最高の教材を用意し、そのために負担するお金も文句を言わないで払うことです。」
ジョウはその後、何度も教育委員長に再選されていくことになります。
月日が経ち、エディの両親が亡くなくなったため、エディが農場を相続しました。
ジョウは、農場で働く農夫を雇うため、救護院へ行って見込みのありそうな若者を探しました。
ある者は1日、ある者は1週間、ある者は何年もジョウとエディの農場で働きました。
ジョウは70代で亡くなりました。 エディもその数か月後に、後を追うように亡くなりました。
村人たちは、裕福だったが子どものいないジョウとエディの遺言に興味を持ちました。 遺言にはこう書かれていました。「農場の規模を縮小し、余った土地は興味を持つ人なら誰に売ってもよい。売却金はすべて、社会復帰を目指す前科者の援助をするため、銀行と教護院が管理する信託基金に入れること。」
ジョウとエディは、死後も村人から尊敬され続ける存在となりました。
ジョウの生前、私が州の心理学者としての仕事を得たとき、ジョウは私を祝ってくれました。そして、「州の刑務所に、あなたが読むべき古い資料があります」と言いました。私は、ジョウが自分の記録のことを言っているのだとわかりました。
そして、私はジョウの記録をすべて読みました。そこには、信じられないような大変恐ろしく凶悪な記録が書かれていました。
ジョウは、人生の最初の29年間は、ただただ問題を起こすだけの人でした。
しかし、彼はエディとの出会いで変わりました。
彼にとって人生を変えるために必要だった心理的な治療は、「あなたが紳士的な人ならいいですよ」というひと言だけだったのです。