ミルトン・エリクソンの生涯

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目次

ミルトン・エリクソンとは

ご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、癒しを語るうで欠かせない人物の生涯について紹介したいと思います。

皆さまは、ミルトン・エリクソンという人物はご存じでしょうか?

ミルトン・エリクソンは、20世紀最高の心理療法士であり、天才的な催眠療法士として広く知られている人物でした。

その創造的で独特な手法で数多くの人を、その手腕は「エリクソンに治せないものは、アメリカ中どの医者にかかっても治せない」と言われるほどでした。

著名な心理学者であるフロイトが心理療法の理論に貢献したことに対し、ミルトン・エリクソンは心理療法の「技術」に歴史的な貢献をした人物でした。

スティーブ・ジョブスやビル・ゲイツなど、カリスマ経営者も取り入れていることで有名な「コーチング」には、ミルトン・エリクソンの技術・技法が取り入れられています。

彼は今でも、心理療法の世界で最も偉大な伝達者と呼ばれています。

しかし、彼自身の人生は決して順風満帆なものではありませんでした。

エリクソンは、数多くの健康上の問題を抱えて、苦しみ続けました。

幼少期に患った大病により彼の右腕はほとんど動かず、両足も不自由でした。

横隔膜も半分しか使えない状態で、唇もマヒし、舌も正常な位置に保っておくことができませんでした。

しかし、そんな重大な問題を抱えているにもかかわらず、エリクソンは大変明るく、人を楽しませることが大好きな人物でした。

エリクソンは常に今この瞬間を楽しみながら生きていました。

舌や唇の問題でうまくしゃべれなくても、その中でもなんとか言葉を発して治療を続ける自分を誇りに思っていました。

自分の能力に奢ることなく、患者がより良い人生を歩み始めたことに、心から喜びを感じていました。

そんな伝説的な「傷ついたヒーラー」、ミルトン・エリクソンの生涯をご紹介したいと思います。

子供時代

1901年5月、ミルトン・エリクソンは、アメリカウィスコンシン州の農村で生まれました。

エリクソンは、幼いころから変わった子供でした。

本などの印刷物がほとんど流通していない田舎町に住んでいたにもかかわらず、本を読むことが大好きで、一日中辞書などを読んで過ごしていました。

しかし、皮肉なことに彼は文字が読みにくい失読症を患っていたのです。

そのため、家庭教師が時間をかけて誤読を修正していく必要がありました。

そんなある日、家庭教師が数字の「3」とアルファベットの「M」の違いについてエリクソンに教えていました。

教師が試行錯誤しながら教えている中、ふと数字の「3」を横に倒してみたところ、エリクソンは目のくらむような閃光とともに、「3」と「M」の違いが理解できたと後に語っています。

そのほかにも、エリクソンは色盲で重度の音痴でもありました。

しかし、彼はそのような問題にも心を折られることはなく、自分の周辺の世界を丁寧に観察し続けながら、たくましく成長していきました。

15歳の時には、農場で暮らす若者の問題となぜ若者が農村から離れていくのかについて論文を書き、雑誌に投稿しています。

死の病からの生還

しかし、1919年エリクソンが18歳の時、それは突然起こりました。

当時、「死の病」として最も恐れられていた、「ポリオ(小児麻痺)」にかかったのです。

その状態は非常に悪く、自宅に診察に来た医師が両親に「息子さんはもっても明日の朝まででしょう」と告げるほどでした。

その医師の言葉を聞いたエリクソンは、ベットの上で絶望ではなく激しい怒りを感じたといいます。

なぜなら、たとえ医師であろうと、親に子が間もなく死ぬと告げることは許されないと感じたと後に語っています。

医師が去ったあと、エリクソンは何とか声を振り絞って、母親にベッドの向きを変えさせました。

エリクソンはその理由について後に、「もう一度夕日を見ずして死んでたまるか」と思ったと語っています。

実際に窓から夕日を目にしたエリクソンは、その後昏睡状態に陥ります。

3日後、エリクソンは奇跡的に目を覚ましました。

しかし、戻ったのは意識だけで、エリクソンが動かすことができたのは目だけでした。

身体のほとんどの部位が麻痺していたのです。

しかし、そんな状態でもエリクソンの学ぶことに対する意欲は衰えませんでした。

彼は聞こえてくる音や声に耳を澄まし、その意味を考えながら寝たきりの過ごしました。

足音にじっと耳を傾け、それが誰で、今どんな気分でいるのかを判断しようとしました。

そのような生活の中、エリクソンが「人生で最も重要な学習体験」と語る出来事が起こりました。

その日、家族はエリクソンを残して外出していました。

家族が外出する前、エリクソンは母親に頼んで足が弧を描いた揺れる椅子に座らせてもらい、窓の外を見られるようにしてもらいました。

しかし、最初に座らせてもらった位置からは十分に窓の外を見ることができず、すぐにその眺めに飽きてしまいました。

エリクソンは、もう少し窓の近くに移動できれば、もっと違う眺めを楽しむことができるのではと考えました。

しかし、身体を動かすことができないエリクソンひとりでは不可能なことでした。

エリクソンは窓に近づくためにはどのような動作が必要なのか、どのように身体に力を入れるべきなのかを、過去の記憶を頼りに考えはじめました。

しばらく考えに没頭していましたが、ふと、エリクソンは自分が座っている椅子がゆっくりと揺れ始めていることに気が付きました。

ただ椅子を動かしたいと考えただけで、動かないはずだった身体の潜在能力が働いたのです。

エリクソンは人生において大変重要な発見をしたと興奮したそうです。

エリクソンは、その後何週間、何か月もの間、身体の感覚について過去の記憶を探り続けました。

何かを手に持つときの感覚がどのようなものであったかを思い出そうとしました。

そして、ゆっくりと変化が現れはじめました。

まず、一本の指がピクっと動くようになりました。

それから、意識してその動きを再現できるようになりました。

いつしか、複数の指を同時に動かすことができるようになり、バラバラに指を動かせるようにもなりました。

エリクソンは、そのころちょうど立って歩き始めようとしていた妹の様子もよく観察しました。

妹が立てるようになれるまでの過程を観察し、自分が練習するときに応用できるようスキル分けをしました。

そのような努力のおかげで、いつしかエリクソンは立って歩けるまでに回復しました。

リハビリという名の冒険

1922年、本格的なリハビリを行っているとき、担当の医師から筋肉を積極的に動かすようなことをしたほうがいいと勧められたエリクソンは、カヌーで旅をすることを思いつきました。

この旅の計画は友人と立てましたが、直前になってその友人が同行できないこととなり、思いがけずひとり旅になりました。

ただでさえ心配していた両親には、ひとり旅になったことは告げずに出発しました。

川までは、友人たちに車で連れて行ってもらいました。

彼は、カヌーと2週間分の食料と調理器具、テント、教科書数冊、現金数ドル、そして松葉づえを持ち、旅に出ました。

彼は、自分がこの旅をやり遂げることができるという強い自信を持っていました。

最初のダムに差しかかって、これ以上先に進むことができなくなったとき、エリクソンは防波堤に這い上がり、誰か人が通りがかるのを待ちました。

その時、自分が相手が近づいてくることを許せば、相手が助けの手を差し伸べてきてくれるということに気が付きました。

旅の途中、各地の農夫や漁師に頼んで仕事をもらい、お金を稼ぎました。

同じく川を旅していた旅人に食事を作ることで、食費を稼ぐこともありました。

また、漁師などに物語を語り、小遣いをもらうこともありました。

彼の人間に対する興味は、この旅の間にさらに高まっていきました。

いろいろな地域のいろいろな暮らしを見ることができました。

旅を初めてから6週間後、エリクソンの肩や腕は見事に鍛え上げられ、川の流れに逆らって

カヌーを漕ぐこともできるようになっていました。

また、再び歩けるようになっただけではなく、カヌーを肩にかついで歩くこともできるようになっていました。

10週間後、約1900㎞にも及ぶカヌーの旅を終えて帰宅したエリクソンは、身体の健康を取り戻しただけではなく、旅を始める前よりも多くのお金を手にしていたといいます。

精神科医としての成長

その後、エリクソンは、ウィスコンシン州にある医大の大学院に進み、26歳で医学と心理療法士の学位を取得しました。

医師としての研修を続ける中、エリクソンは自分の身体が不自由なことで、患者に警戒感を与えず、親しみやすい存在になっていることに気が付きました。

自分が歩んできた人生のおかげで、施設にいる患者を深く理解することができるということにも気が付きました。

研修を終えたエリクソンは、強い推薦を受けて当時から有名だった州立の精神病院で医師助手となりました。

彼はそこで、精神病と居住環境、家庭環境などの関係性を研究し、その成果を発表しました。

その後、他の州立病院に移って医師となり、研究主任の精神科医として出世しました。

しかし、順調な仕事とは裏腹に、彼の結婚生活は下り坂となっていました。

1934年、エリクソンは最初の妻と離婚をし、3人の幼い子供の親権を持つことになりました。

彼は家庭生活での失敗を経験したことで、家族・家庭というものついてさらに深く理解しようとする決意がさらに高まりました。

そして、「失敗は貴重な学習体験として受け入れるのが最善」というのが生涯のモットーとなりました。

1936年、エリクソンは再婚しました。

妻のエリザベスはいきなり3人の子の母親となりましたが、家族を大変愛する良き妻としてエリクソンを支えました。

その後、エリクソンはさらに5人の子供に恵まれ、大家族となりました。

エリクソンは家族との時間を大切にしました。

彼は家族の生活を中心にしながら仕事をするようになりました。

患者が望めば、家族と患者が触れ合う機会も設けました。

エリクソンの成長は、家族の成長と結びついていたのです。

2度目のポリオと晩年

1953年、すでに開業医として成功し、雑誌「ライフ」などのメディアが特集を組むほどにアメリカで有名になっていたエリクソンに、再び悲劇が起こりました。

いわゆる「ポリオ後遺症」と呼ばれるものにかかったのです。

エリクソンは非常に危険な状態に陥り、想像もできないほどの痛みに苦しみました。

あまりにも強く筋肉がけいれんしたため、引きちぎれてしまった筋肉もありました。

その後、何とか一命をとりとめたエリクソンですが、腕や背中、腹部や脚の筋肉の多くを失っていました。

そんな状態の中でも、エリクソンは助けを求める患者の治療を行い、国内外の講演スケジュールもこなしました。

しかし、身体の状態は悪化し続け、1967年には車いすを使わざるを得なくなっていました。

1969年には旅行を行うことも難しい状態となり、エリクソンは自宅の診療室での治療やセミナー等に集中することになりました。

年齢が進むとともにエリクソンの身体の状態は悪化し続け、1974年ころには、医師仲間のひとりに、身体の痛みがあまりにも強いため「まるで自分の身体の中で他人が動いているようだ」と語っています。

人生の終盤にさしかかるころには、両手にはほとんど力が入らなくなっていました。

顔と口の多くの筋肉も麻痺していました。

しかし、こんな状態にもかかわらず、エリクソンは力を振り絞り、世界中から訪れる患者を治療し続け、若き後進たちのためにセミナーを開きました。

1980年5月25日、エリクソンは他界しました。

彼が亡くなった時点で、彼のセミナー等のスケジュールは年末まで埋まっていました。

エリクソンは息を引き取る間際まで、この世界に変化をもたらそうと、自分の役目を果たし続けました。

エリクソンは他の心理学者等のように、自分の貢献を後世に伝えるための学派等は一切つくりませんでした。

彼単身での著書も出版しておらず、だれもが自分の治療手法に触れることができるよう、論文という形で発表し続けました。

自分が優れた治療者であることを強調しようとはせず、治療は患者自身が行うもので、自分はその手助けをしているだけというスタンスを維持し続けました。

死後も彼の功績は語り継がれ、多くの人に癒しを与えています。

「傷ついたヒーラー」ミルトン・エリクソンの生涯、いかがだったでしょうか。

このブログでは、ミルトン・エリクソンが治療に用いた「逸話」もご紹介していきたいと考えております。

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