エリクソンの自宅兼治療所に、喫煙の問題を抱えた女性が訪ねてきました。その女性は、たくさんの本も出している売れっ子作家でした。
女性はエリクソンに「あなたの友人や教え子の治療家たちのところに行きましたが、私に催眠を使おうとして、ことごとく失敗しました。その人たちが皆言ったのは、『あなたを催眠状態にできるのは、エリクソン先生しかいない。』ということでした。なので、わざわざ国をまたいでまで、こうしてあなたに会いに来たのです。でも期待はしていません。正直、皆がそれほど言うあなたにも失敗させてあげようと思って来ました。」と挑戦的な態度で言いました。
エリクソンはこう答えました。「それでは、今すぐに、さっさとそれを済ませてしまいましょう。私の失敗なんてとっとと片付けてしまったほうがよさそうです。なぜなら、あなたには肺気腫の治療こそが必要だと思いますので。」
エリクソンは、女性の呼吸音や声の出し方、息をするときの身体の使い方などを見て、彼女が肺気腫であると診断したのだった。
その後の彼女への問診で、彼女が1日にタバコを4箱も吸うことがわかりました。彼女が持っていた大きなハンドバッグに2カートン入っていました。ほかにも、車のグローブボックスに2カートン、車の後部座席に2カートン、家の洗面所に2カートン、キッチンに2カートン、ダイニングルームに2カートン、リビングルームに2カートン、寝室に2カートンを置いていました。
エリクソンは、彼女に対して素人のようなみじめな様子で催眠をかけようとしました。彼女がエリクソンの失敗に満足をするまでたっぷりと時間をかけて失敗をし続けました。そしてその後、彼女にこう言いました。「さあ、これで私があなたを催眠状態にできなかったことがわかりました。最初の課題は解決できましたので、いよいよ本当の課題の話をしましょう。」
エリクソンは彼女に、「肺気腫と1日にタバコを4箱吸うことについて、あなたに言わなくてはならないことがいくつかあります。私は、あなたのような肺気腫を患っている人が1日に4箱もタバコを吸うなんて、愚の骨頂だと考えています。あなたは修士号をお持ちだし、たくさん本も出されている作家です。そのような人が、こんな簡単なことを理解できないのはなぜなのかを知りたいのです。」と言いました。
そして、女性と数時間の話し合いをした中で、彼女が自分の健康を守りたいとは思っていないことが明らかになりました。そのことを理解したエリクソンは、彼女へのアプローチを変えることにしました。
エリクソンは、彼女にこう言いました。「ひとつお聞きしたいことがあります。なぜあなたは、タバコで自殺しようとしているのですか?」
女性はしばらく考えた後こう答えました。「父を殺したからです。」
それから、女性は自身の幼少期のできごとについて話しはじめました。彼女がまだ幼かったころ、父親が重たい脳卒中を患ったため、自宅で介護するという生活になりました。彼女は、父親が横になっているベッドのわきにしっかりと張り付き、自分にできることはなんでもしていました。彼女は、自分がこの場を離れ、父から目を離したら、父親を失うと考えていました。そのため、祈るような気持ちで、父親のそばに居続けたのです。しかし、ある日、とうとうふとベッドから離れ、父親から目を離してしまいました。そして、彼女がベッドわきに戻ると、父親は亡くなっていたのです。
女性の話を聞き終えたエリクソンは、しばらく間をあけた後、深い思いやりの気持ちを込め、力強く「幼い少女には、幼い少女なりの思いや考え、判断があったのでしょうし、それは責められるべきものはありません。」と言いました。
女性は、アメリカに滞在した1週間、毎日エリクソンの治療所を訪ねました。そしてその間、彼女の吸うタバコは、1日4本にまで減っていました。
帰国した女性は、数か月後にまたエリクソンの元を訪ねてきました。2度目の訪問後には、彼女は1日4回、口に含んだ煙を吐き出すだけになっていました。
女性の望みを叶えるべく、わざと催眠を失敗してみせたところは、エリクソン先生が、自身の地位や名誉なんかよりも、常に患者のことを第一に考えていたことを表すエピソードだと思います。また、表面上の治療で終わらせるのではなく、問題の本質を粘り強く探そうとする姿勢も表れていると思います。