今回は、『パンテ・テーネポラ・グナラタナ』という瞑想指導で有名な高僧が書かれた本について紹介させていただきます。
私は、日常生活の色々な場面でイライラすることが多い性格で、他人のマナー違反や些細な言動に怒りを覚えていました。しかし、自分を見つめなおしていく中で、そのような性格が自分の心を汚し、自分自身を苦しめていることに気がついたのです。
そのような自分を変えたいと思っているときに出会ったのがこの本です。
今では私の大切な習慣となっているものを与えてくれたこの本をご紹介したいと思います。
大切な癒しの習慣をもたらしてくれる本です
慈悲とは何か
慈悲は、仏教におけるブッダの教えの中でも主要なもので、大変重要視されているものです。
慈悲とは、あらゆる生命を慈しむ心のことで、見返りを求めない無条件のやさしさのことです。
その対象はすべての生命で、慈しみに包まれない生命はありません。
慈しみには限界や境界などはなく、どのような差別も偏見も介入させることなく、「生きとし生けるすべての生命が幸せでありますように」と願う、その心が慈悲です。
誰かのために何かをしているつもりでも、結局は自分のエゴによるものだということに気づくことがありますよね。
まさしく以前の私がそうでした(苦笑)
慈悲の心の育て方
ブッダの教えをまとめた「増支部経典」の中で、慈悲の育て方として8つの方法が説かれています。
① 繰り返して、関連づける
慈悲の言葉を義務ではなく楽しみながら繰り返して唱え、心に関連
づけます。特に「慈経」を繰り返し唱えることをおすすめします。
② 育てる
植物を育てるように、まずは心の障害物(欲、怒りなど)を取り除
いていかなければなりません。
そのためには、「気づきの瞑想」(ヴィバッサナー瞑想、マインド
フルネス瞑想)などを実践し、それと並行して、慈悲の言葉やその意
図を繰り返し念じながら慈悲の心を大きく育てていきます。
③ 増幅させる
慈悲の瞑想をするときは、一流のスポーツ選手と同じように熱心に
取り組む必要があります。
全世界とすべての生命へと慈悲の心を広げることができるようにな
れば、慈悲の心はますます強くなり、どのような場面でも落ち着いて
穏やかでいられるようになります。
④ 乗り物(基盤)にする
慈悲という乗り物を人生を生きていくための手段としましょう。
慈悲が習慣になれば、心はやすらぎ、幸せを感じながら生きていけ
ます。
立っているときも、座っているときも、歩いているときも、横にな
っているときも、会話しているときも、仕事をしているときも、眠っ
ているとき以外は、この慈悲という乗り物に乗り続けるのです。
⑤ 土台にする
慈悲を心を落ち着かせ、善い行いをするための土台としましょう。
慈悲が安定すると、心のやすらぎや幸せも安定していきます。
⑥ 経験する
慈悲は哲学でも理論でもありません。実践して経験していくことで
積み上げていくものです。
慈しみを日常生活の中で実践して経験してください。
実践と経験をしているときだけ他人を助けることができます。
慈しみを実践するときは、誰かに認められようとする気持ちは捨て
てください。黙って実践するのです。
⑦ 習慣にする
呼吸やまばたきのように、自然と慈しみの心が湧くようになるまで
実践してください。
他人が見ているかどうかや、感謝されているかは気にしないでくだ
さい。
⑧ 十分に実践する
欲や怒りといった苦しみの根源を消し去り、乗り越えていくために
慈悲を実践してください。
1日を慈悲の心からスタートさせてください。
まずは自分に慈悲の心を向け、自分を傷つけないように気を付けて
ください。
そのうえで、自分を他人よりも高い位置に置かないようにしてくだ
さい。
まさしく自分のエゴの強さが問題だと考えていた私にとっては、本当に求めていたものに出会えたという感覚でした
慈悲の瞑想の効果
- やさしさや喜び、充実感、感謝、希望、興味、楽しみなどが高まる。
- 対人感情が良好になり、社会的つながり、思いやりが育つ。
- 片頭痛、腰痛、うつ病、PTSDが減少する。
- 統合失調症や自閉症スペクトラム障害の症状が改善する。
- 共感力やEQ(心の知性)をつかさどる脳の領域が活性化される。
慈悲の瞑想のやり方
① 「私」への慈しみ
ブッダは、まずは「私(自分)」を慈しむことからはじめるよう説きました。静かで落ち着ける場所を見つけて座り、次のような慈悲の言葉を念じてください。
私が、慈(慈しみ)・悲(思いやり)・喜(共感的な喜び)・捨(平静な心)で満たされますように。 寛大でありますように。 穏やかでありますように。 感謝で満たされますように。 リラックスしますように。 幸せで、安穏でありますように。 健康でありますように。 やさしくありますように。 よい言葉を話しますように。
私が見るもの、聞くもの、におうもの、味わうもの、触れるもの、考えるものすべてから、慈・悲・喜・捨を育てることができますように。 寛大さとやさしさが育ちますように。 親しみをもって行為できますように。 その行為が幸せとやすらぎをもたらしますように。 人格が育ちますように。 恐れ、緊張、不安、悩み、焦りがなくなりますように。 どんなときでも、穏やかに、幸せに、慈しみの心で他者と接することができますように。 あらゆる方向からの、欲、怒り、嫌悪、憎しみ、嫉妬、恐怖から守られますように。
② 「親しい人」への慈しみ
自分への慈悲の心が育ってくると、家族や恋人、友人など、自分と親しい人へも慈しみの心を広げることができるようになります。
上記の慈しみの言葉の主語を、「私の親しい人が」や「私の家族が」「私の友人が」などと変えて繰り返し唱えます。
③ 「好きでも嫌いでもない人」への慈しみ
普段は、関心を寄せていない人に対しても、慈しみの心を広げていきます。 慈悲の言葉の主語を、「好きでも嫌いでもない人が」などと変えて唱えます。
④ 「私の嫌いな人・私を嫌っている人」への慈しみ
慈悲の対象にはなんら区別や差別はありません。ですので、「自分の嫌いな人」や「自分を嫌っている人」へも慈悲の心を向け、その幸せを願います。 慈悲の言葉の主語を、「私の嫌いな人、私を嫌っている人が」と変えて唱えます。
ここが慈悲の瞑想の中でも最もハードルの高いところだと思います。私もまだ唱えていて心がざわつく感覚になることがあります。そのような時は、無理をせずにここを飛ばして次の段階に進んで唱えるようにしています。
⑤ 「生きとし生けるもの」への慈しみ
最後の段階として、慈しみを全宇宙の生命に対して向けます。特定の誰かを思い浮かべるのではなく、東西南北、上下の方向に生きるすべての生命の幸せを願いながら、慈悲の瞑想を行います。 慈悲の言葉の主語を、「生きとし生けるものが」と変えて唱えます。
※ 最後に感想など
自分のエゴの強さに嫌気を差し、何とかしなきゃこの先苦しみ続けることになると考えていた私にとって、この本の内容はまさしく救いとなるものでした。
この本と出会ってからは、できる限り毎日慈悲の瞑想を行うようにしています。
特に、瞑想をするうえでの姿勢などの指示はなかったので、ソファに座ったり、ベッドに横たわったり、自由な姿勢で実践しています。
また、通勤のバスや電車の中でも慈悲の言葉を唱えることが多いです。
その際の言葉も、上でご紹介した言葉のほかは、ただ単に「生きとし生けるものが幸せでありますように」と繰り返し唱えることも多いですし、時間に余裕があるときは、なるべく「慈経」の全文を唱えるようにしています。
私が実践しはじめて1年ほどと、まだまだ初学者というべきレベルではありますが、自分の中の怒りの感情が小さくなってきているのを感じています。
小さなことに対してもイライラしてしまう癖も明らかに小さくなり、心穏やかに過ごせる時間が増えています。
散歩などをしていて、道路わきで咲いている花や樹などにも、愛おしさを感じている自分に気づくこともあります。
明らかに自分が変わりつつあり、苦しみから逃れるための道を歩いているのを実感していますので、これからも習慣として続けていきたいと思っています。
皆さまも、「そこまで言うなら少し試してみるか」という気持ちで結構ですので、お試しいただければと思います。
それでは最後に、私ができる限り毎日暗唱するようにしている「慈経」の全文をご紹介して終わりにしたいと思います。
慈経
涅槃(ねはん)の道を了知する者が、静かな場所に行ってなすべきことがあります。
能力があり、まっすぐでしっかりし、人の言葉をよく聞き、やさしく、高慢ではないように。
足ることを知り、手がかからず、雑務少なく、簡素に暮らし、感覚が静まり、賢明で、裏表がないように。
知恵ある賢者たちから批難されるような過ちはしないように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
幸福でありますように、平穏でありますように。
生きとしいけるものはいかなるものでも、か弱きものでも、強きものでも。
長いものも、大きいものも、中くらいのものも、短いものも、小さきものも、太いものも。
目に見えるものも、見えないものも。
遠くに住むものも、近くに住むものも。
すでに生まれているものも、これから生まれようとしているものも。
生きとしいけるものが幸せでありますように。
誰であっても、他人を欺いてはならない。
どこであっても、他人を軽んじてはならない。
敵意や怒りで、互いに苦しみを与えることを望んではならない。
あたかも母親が、我がひとり子を命をかけて守るかのように、そのように、すべての生きとし生けるものに対して、無量の慈しみの心を起こしてください。
すべての世界に対して、上に、下に、横に、隔てなく、恨みなく、敵意なく、慈しみの心を起こしてください。
立っているときも、歩いているときも、座っているときも、横たわっているときも、眠っていない限りは、この慈悲の念を保ってください。
これが、崇高なる境地です。